私的なことだけど、ここ最近は非ルーチンの仕事が増えた。
そのせいか、金曜日になるとぐったりする。
ルーチンと仕事
思えば、仕事には、特に勤めびとにはルーチン作業が沢山ある。
日、週、四半期、半年、一年といった、ある時間的な区切りで周期的に同じタスクを繰り返している。
これは何のためか。
理由はいろいろあるだろう。
けど、ここで言いたいのは一つの理由だけ。
すなわち、ルーチンは認知の負荷を低く抑えるためだろう、ということ。
ルーチン、つまり定形のタスクがなくて、毎日が非日常だなんて、詩人でもないかぎり願い下げだろう。
少ない労力で一定以上のアウトプットを継続的に出すには、仕事を定形タスクにしなければやってられない。
だから、逆説的に言えば、仕事って非定形のタスクを定形に変えることだし、労力、集中力を可能な限りセーブし、ここ一番の仕事にドカッと振り向ける、ということだ。
小さいところではメールの書き方のような数十秒レベルのタスクから、大きなところでは四半期ごと、一年ごとのプロジェクトの進め方まで、さまざまなタイムフレームで定型化したルーチン作業をしているはずだ。
無意識領域に追いやられた仕事たち
しかしここで書きたいのは、むしろルーチンのことである。
これらのタスクは定形化されてしまっている。
極端な話、簡単な作業レベルのルーチンであれば頭で他のことを考えていても出来てしまう。
もちろん、プロジェクトレベルの大きなタスクだって、疑いもせず当然のこととして前例にしたがって作業を進めるだろう。
これらのルーチンは意識の地平に登ることはない。
むしろそのためにやっているのだから。
状況変わってないか?
しかし。しかしである。
この世の中、状況だけはどんどん変わる。
そのルーチンが、実は非効率になっていたり、そもそも不要になっていることだって、あるのだ。
ところが前述のように、これらのルーチンが意識されることはない。
したがって再評価のタイミングは、無いかごくごく限られるんである。
ダメなルーチンに気がつくとき
再評価のタイミングはたぶん3つ。
- 定期的に定形業務を棚卸しし、再評価する。
- 手遅れになって気がつく。
- 他者からの指摘。
1.の出来る人はこの先を読む必要がありません。お帰りください。
2.で気づくのは避けたいところ。
そこで3.である。
これを大事にしたいと思うんである。
他人からの指摘を大事にしようNE!(当たり前か?)
他人からの指摘は大事だなんて、これ以上当たり前の話はない。
ただここまで連々、書いたのは目的がある。
ルーチンについて他人から指摘を受けた時、たとえば「なんでそんなことやってるの?」とか、「それって意味あるの?」
と言われた時、俺達は通常、どう反応するだろうか。
そこに狼狽はないだろうか。
そして必要な理由を、実はその場で探しながら相手にまくし立てたり、しないだろうか。
俺はしょっちゅうだ。
なぜか。
先述の通り、ルーチンなんて無意識でやってるからもう妥当性なんて忘却の彼方なんである。
もうそこには「だって毎回やってたから」以上の意味はないんである。
だから指摘されたら慌てるのも、当然なんである。
古いスーツのように
俺はできるだけこう思うことにした。
ルーチンとは古いスーツだと。
つまり、他人からの指摘は、いわば「意識もせず同じスーツを何年も着てたら、友人から『君のスーツ、パンツがダボダボだ。いまどき誰もそんなの穿いてないぞ』と言われた」ようなものだと。
もっと極端に「何年も同じジーンズ穿いてたら、友人から『そのケミカルウォッシュ(若い人はググってくれ)もうやめなよ』と言われた」という例えのほうが恥ずかしさが伝わるだろうか。
とにかく、そういう指摘を受けたら、赤面して家にダッシュで帰って古いスーツ、古いジーンズは捨ててしまうのがよい。
ルーチンもそうしよう。
そして指摘してくれた人を大事にしよう。