QCサークルというのをご存知だろうか。
QCとはQuality Controlの略。
職場を共にする少人数グループで行う品質管理活動のこと。有り体に言えばトヨタのカイゼンである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/QCサークル
http://www.juse.or.jp/qc/
良い事例については共有し、他の職場でも活用してもらいたい、というのは会社として当然のこと。そこで活動結果の発表会が催される事になる。なんと全国大会もあるのですよ。
私の勤める会社でもQCサークルがあり(どちらかといえばQCサークルは製造業向けで私の会社にはややそぐわない気もするのだが)、活動結果の発表会もある。
で、私はこの発表会が大嫌いなのであった。
もう少し詳しく言うと、発表会で一般的なフォーマットが嫌いなのだ。
そのフォーマットとは。
たとえばここを見てほしいが、まずグループや職場の紹介から始まるのである。
「誰々と誰々がいて、彼は気は優しくて力持ちです」
「とても楽しい職場です」
次に活動のテーマ選定をどう選んだか。
それから目標設定、現状把握。
いつまで経っても結論に至らないのである。
いま流行りのロジカルシンキングで言えば、例えばまず最初に「これこれの問題がありましたが、改善活動の結果、このような対策を講じてこれこれの効果を得ました。改善活動の内容について説明いたします」と言うべきだろう。
そう考える私にとっては、改善活動の事例発表を聞くのは苦痛以外の何物でもない。
が。
あるときふと、これは敢えてやっているんじゃないだろうか、という疑念が湧いた。
端的に言えば、事例発表会は物語の共有じゃないか、ということ。
人間がものごとを認知する方法には二つのモードがある、と言われる。
ブルナーという人が言い出したことらしいが、一つは論理モード(Paradigmatic Mode)であり、もうひとつは、ストーリーモード(Narrative Mode)である。
前者はすなわちロジカルシンキング手法であり、後者は物語だ。
効率性で言えば断然に前者だろう。物語だなんてまどろっこしいこと言ってられるか。
しかしドナルド・ノーマンは「人を賢くする道具で、以下のように述べる。
「物語には,形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を的確に捉えてくれる素晴らしい能力がある。論理は一般化しようとする。結論を特定の文脈から切り離したり,主観的な感情に左右されないようにしようとするのである。物語は文脈を捉え,感情を捉える。論理は一般化し,物語は特殊化する。論理を使えば,文脈に依存しない凡庸な結論を導き出すことができる。物語を使えば,個人的な視点でその結論が関係者にどんなインパクトを与えるか理解できるのである。」
中原淳、金井壽宏の「リフレクティブ・マネジャー」ではこんな話が紹介されていた。
コピー機の修理をする部隊を調査した。学びには何が一番役に立ったか。
なんとそれは、研修や技術書などではなく、同僚との他愛もないおしゃべりだったという。
「先日、どこどこのこんな故障をこのようにして切り抜けた」
「こういう操作をしたらひどい目にあった」
といった何気ない成功談、失敗談から最も多く学んだというのである。
物語で認知する、という機能が私たちに備わっていることは、何千年も残る神話が証明している。
そして21世紀になった今でも、その機能を利用した大きな大きな商業装置がある。
ハリウッド映画である。
大塚英志の「ストーリーメーカー」では、多くのハリウッド映画が神話の形式に則っていることが示される。
有名どころではスターウォーズがそうだし、当該本ではバイオハザードを例題に詳しく説明している。
私が最近に観た映画で言えばTrue Gritがそうであった。
すなわち主人公は冒頭で何かを失い、異界へ赴き、そして結果を得るが、代償として何らかの「しるし」を身に負う(実際はもっといろいろなパーツがある)。
この形式に沿えば、私たちは全体を自然に認知できるし、「形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を的確に捉え」(ノーマンの前述書)られるのだ。
翻って、退屈で仕方がなかったQCサークルの事例発表である。
今にして思えば巧妙に計算された結果の神話フォーマットなのではないか。
どうでしょう皆さん。
なお念のためノーマンの本から続けて引用する。
「物語が論理より優れているわけではない。また,論理が物語より優れているわけでもない。二つは別のものなのだ。各々が別の観点を採用しているだけである。」